「ありがとう台湾」の先にあるべきもの

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今日はちょっと真面目なお話を。

約2年半前に起きた東日本大震災後に台湾から多大な支援をしていただいたことは、台湾好きならずとも多くの方がご存知かと思います。

その後日本では、義援金へのお礼として、いわゆる「台湾ありがとうキャンペーン」なるものが増えだしました。自転車で台湾を一周する人、ベースボールの世界大会で「謝謝台湾」のプラカードを掲げる人、在台留学生によるイベントなど、それぞれが感謝の思いを自分たちなりに表現しています。


「ありがとう」で妙に盛り上がる日本人たち


私はここで、あえてなんですが、こういったキャンペーンで熱気が高まる最近の風潮に疑問を持っているということをここでお伝えしたいと思います。それはなぜかというと、「ありがとう台湾」で盛り上がる日本人の中に、一体どれだけ被災者のことや復興について考えている人がいるのだろうかと感じるからです。

「ありがとう」と言う人の中には、直接的に震災の被害を受けていない人もいます。それは、これが福島をはじめとする被災地だけに降りかかったのではなく、同じ日本に住む者すべてに起こった悲劇であり、日本人という“同胞”のために支援してくれたから。つまり「ありがとう台湾!」というその言葉には、「私たちのために」という枕詞がついているわけです。

ではそうだとすれば、そういった人たちは、「同胞」である被災者についてどれぐらいの理解があるのでしょう。そのときばかり当事者意識になってはいないでしょうか。ただただありがとうで盛り上がってお礼されることを、義援金を送ってくださった人たちが一番に望んでいることだとは、私はどうも思えません。


寄付してくれた人たちが望んでいることはなにか?


そうした日本からのお礼に対して、多くの台湾人もまた、「日本と台湾はやっぱり最高の友だちだ」「これからも真の友好を築いていきましょう」という反応を示してくれています。たしかに、台湾からの大きな支援によって、双方の交流がさらに深まったり、今まで台湾についてそれほど知らなかった日本人が関心を持つようになったりすることは、素敵で有意義だと思います。仲が良いに越したことはありません。

一方で、今年のWBCの日台戦で多くの日本人が感謝のプレートを掲げたときのことについて、ある台湾人の知人からこんな風にたずねられました。

「ところで復興の進み具合はどうなったの?」

つまり、“それもいいけどほかに熱をあげて取り組まなくてはいけないことがあるんじゃないのか?”という意味でした。


まさしくその通りです。逆の立場だったら、私も同じように感じていたと思います。義援金を送ってくださった多くの人たちは、お礼をいわれるためではなく、早く復興してほしい、元気な日本を取り戻してほしい、そんな思いから身銭を削って寄付してくれたはずなのです。


「ありがとう」を被災地復興のきっかけに


ですから、まだまだ年月はかかりますが、復興しつつあること、あるいはしたことを報告する、これが一番のお礼の伝え方だと思っています。私は決して、「ありがとう台湾キャンペーン」が悪いことだと非難するつもりはありません。さきほどもお伝えしたとおり、国同士仲が良いにこしたことはありませんし、やはりしてもらったことへのお礼はきちんと相手に伝えたいものです。

ただ、それを言っている自分に満足してしまったり、賛同するときばかり「私たち日本人」と当事者面して盛り上がるだけで終わりだったり、それだけでは意味がありません。そうしたイベントやSNSの拡散などで話題になることは、震災から約2年半が経過した今、あらためて被災地のためにできることはないかと考える良いタイミングになるはずです。

単に「福島について考えよう」といわれたところで、忙しい現代人たちが日々被災地のことに思いを寄せながら生活するのは現実的に難しいことだと思います。一方おもしろいことや興味のあることであれば、自発的に考えたり取り組んだりする良いきっかけとなるのです。


したがってこの「台湾ありがとうキャンペーン」は、薄れかかっていた震災の記憶を取り戻し、にぎやかな波に乗った勢いで被災地の復興を盛り上げ、福島を楽しく応援することにつなげる、そういったことのためにあるべきだと私は考えています。


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