金門島・歴史探訪の旅「古寧頭(こねいとう)戦場エリア」

金門島

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午後2時。民宿のオーナーママに手配していただいた車で金城バスターミナルへ到着しました。この日の午後は県営のツアーバスに乗って、金門島の北西部《古寧頭戦場エリア(B線)》を観光します。

本島のツアーバス(台湾好行)とは違い、ここでは現地のガイドさんが各地を案内してくれるのでとても助かります(ただし中国語とわずかな英語のみです)。パンフレットを見ると、4本ある路線の中でもこのB線が一番ディープです。楽しみな気持ちと、緊張感が入り混じります。


ドライバーにチケットを見せて車内の奥のほうで席を確保すると、とつぜん背後から流暢な関西弁で、「あんた日本人か?」という声が。振り返ると、杖を小脇に抱え優先座席に腰掛けている小柄なお婆さんの姿がありました。

なんでもそのお婆さんは、10年前に日本に帰化した台湾人で、今回は台北の親戚と旅行に来ていたのだそうです。歴史や地名など、現地の専門用語に自信がなかった私にとってはいきなり強い味方が現れました。



金城民防坑道


金城周辺の模型地図  

まず初めに訪れたのは、金城バスターミナルすぐそばの「金城民防坑道」です。“坑道”とは地下トンネルのこと。戦時中の避難経路として、島のあちらこちらに造られたものが現存しています。

なんとここでは、実際にその坑道を歩くことができます。心臓の悪い人、体調が優れない人はご遠慮ください、とのことで、健康な人たちだけでヘルメットをかぶって出発です。




天井は低く、圧迫感を感じる狭さ。人間ひとりが歩ける最小限の大きさに作られています。上の写真はフラッシュをたいた状態ですが、実際は自分の足元も見えないほど真っ暗です。安全面を考えてか、数メートルおきに小さな蛍光灯が設置されていました。

私たちツアーの参加者は手をつないで一列になり、足早に先へ進みます。心なしか空気も薄く感じ、額からは滝のような汗が流れます。






狭く真っ暗な地下道で歩を進める怖さに加え、坑道内では絶えず、空襲警報や爆発音が聞こえてきます。録音テープだとわかっているはずなのに、あまりのリアルさにさすがに泣きそうになる私。歩いても歩いてもたどり着かないような気がしてなりません。


皆で励ましあいながらやっと出口にたどりつきました。久しぶりに浴びるありがたい日の光を感じていると、私たちのバスが先回りして待ってくれています。先ほど声を掛けられた、杖をつくお婆さんも中で待っていました。




  

バスが出発してほどなくすると、途中で降ろされ、迷彩柄の開放感あふれる小型のバスにチェンジ。ここからしばらく、金門島の特産品「高粱酒」の原料でもある高粱(こうりゃん)の畑が広がるのどかな風景が続きます。

さきほどの地下トンネルで共に怖い思いをしたせいか、私たちツアーの参加者は自然と和気あいあいなムードに。私も、知っている中国語を頭からしぼりだして会話を楽しみました。



古寧頭(こねいとう)戦史館


銃を持ち敵に立ち向かう勇士の像。

つづいてやってきたのは、「古寧頭(こねいとう)戦史館」です。1949年、国共内戦中に起きた金門島をめぐる戦い“古寧頭戦役”。ここでは、当時使われていた戦利品や歴史文献などが数多く展示されています。


古寧頭戦役とは

第二次世界大戦後、中国大陸では共産党と国民党による内戦が起きていました。劣勢であった国民党は、台湾島に逃れます。中華人民共和国を建国した共産党は、台湾を占領するためにまずは金門島に攻め入る計画を立てました。2万人もの兵士を投入した共産党の人民解放軍でしたが、日本人を含む国民党(中華民国)軍の周到な作戦と反撃によって、その後の台湾の運命を大きく左右する戦いを勝利で治めることとなりました。3日間の出来事でした。





広場に展示されているのは、「金門之熊」の異名を持つ戦車。観光客はこぞってこの戦車の前で記念撮影をしますが、当時これがどのように使われていたのかを知ると、ぞっとします……。



  

実際に使われていた銃や剣のようなものを間近で見ることができます。貴重な白黒写真もたくさん展示されています。



上の絵画は、人民解放軍およそ1300名が北山断崖で降伏する場面を描いたもの。この戦いで、1000人以上の中華民国軍がその尊い命を失いました。また、捕虜になった人民解放軍の青年兵士たちは、その後台湾本島の宜蘭で教育を受けた後に自国へ送還されたということです。

こうした戦時中の一場面を描いた巨大な絵画が、壁いっぱいに並んでいます。




北山断崖の播音墻(放送塔)


  

先ほどの絵画に描かれていた北山断崖へやってきました。ここは金門島西部の最北端です。つまり、海のすぐ向こうは中国大陸。ここに、48個のスピーカーがついた25キロメートル先まで届く巨大な放送塔を設け、敵国に向けて大音量で放送を行い、心理戦を試みました。



  

私たちがここへ訪れたときは、テレサテンの曲が流れていたように記憶しています。実際に対岸へ向かって流したことがあったそうで、そういったことも心理作戦のひとつだったそうです。



金門島名物の小吃でひとやすみ


  

バスは途中、古い民家が連なる住宅街のようなところで停まり、しばしの休憩時間となりました。近くにお手洗いがあるということなのですが、なんとタイミングよく小吃の屋台が一軒。わたしたち20人ほどのツアー客は、小腹を満たそうとその屋台に群がります。

売られているのは、「炸蚵仔」という小吃です。金門名産の牡蠣がふんだんに使われた、お好み焼きを揚げたようなもの。好みで辛いタレをつけていただきます。揚げたての生地はモチモチとしていて、中には小ぶりの牡蠣がたっぷり。もうひとつ食べようか…と思うも、あっという間に出発の時刻になってしまいました。



北山古洋楼(北山集落)



つかの間の休憩が終わり、続いてやってきたのは「北山集落」です。かつては、ここ北山集落と南山集落、それに林厝を合わせて「古龍頭」と呼ばれていました。

このあたりは、明朝初期に起こった内乱(靖難の変)から逃れるために移住してきた、李氏の子孫が多く暮らす村です。石と赤レンガで建てられた伝統建築(おそらく当時の大豪邸)が目を引きます。フィリピンでの事業に成功した李氏によって建てられたそうです。


実はこの村、金門島に上陸した人民解放軍が潜伏していた地域。写真の北山古洋楼という建物を指揮部として占拠し、中華民国軍との間で激しい戦闘がおこなわれました。最後の戦地となった場所です。




  

壁に近づいてみると、生々しい銃弾の跡が数え切れないほどにのこっています。これは現在、政府によって保護され、洋館のそばには記念の慰霊碑が建てられています。




  

さらに周囲を歩くと、外壁が無残に崩れ落ち、元がなんだったのか分からないような建物が数多くみられます。古寧頭の戦いのすさまじさが感じられる、時間が止まったような景色です。




集落で暮らす人たちはその血縁関係を重視するがゆえ、このように祖先をまつった寺が各地に建てられています。「黄氏宗祠」「李氏家廟」などと書かれており、同じ姓を持つ集落の子孫たちが参拝に訪れます。

李氏の末えいが多いここ北山集落には、上の写真「李氏宗祠」と書かれた寺がありました。ちなみに、一族でなくとも参拝してなんら問題はないそうです。



和平紀念園区


古寧頭門楼。存在感は一際。

少し陽が落ちてきました。ツアーが終わりに近づいてきています。

つづいてやってきたのは、「和平紀念園区」です。写真の大きなゲートをくぐると、私たちが先ほどまで居た、激戦地・古寧頭エリアにはいります。少し緊張感がほどけてきました。

この近くに、古寧頭戦役の記念碑と保安廟という小さい寺が設置されています。




広大な敷地で見晴らしも良く、平和を願うにふさわしい静かな場所です。時間があまりないとのことで足早に歩を進め、平和の鐘をひとりずつ慣鳴らしました。


迷彩柄の小型バスからはじめの中型バスに乗り換え、最後のスポットに向かいます。



慈湖三角堡



ここが今日のツアー最後の場所です。

迷彩柄のお城のような建物「三角堡(=トーチカ)」は、上から見るとおにぎりのような三角形をしています。トーチカとは、敵からの攻撃を防御するコンクリート製の建物で、攻撃が命中され難くするために円形や三角形に造られているのです。人民解放軍が上陸するのを阻止するために造られました。

慈湖三角堡は西のほぼ最北ですが、東の最北にも同じように「馬山三角堡」というトーチカがあります。



  

トーチカの壁には所々に小さな穴があいていて、そこから周囲の様子を伺うことができる造りになっています。望遠鏡で北側を望くと、中国福建省のアモイをはっきりと見ることができました。

別のグループのツアー客に中国人が数名参加しており、感慨深い表情で自分たちが住む国を眺めていました。実は、このように中国と台湾を直接行き来したり、外国人が金門へ観光で訪れることができるようになったのは、2000年代とごく最近のことなのです。



  

中は薄暗く、当時からあまり手をつけられていないような印象でした。兵士の安全規則もそのまま残されています。

現在は、戦地としての観光の他にも、バードウォッチングをしたり、建物自体が野鳥の生態を紹介する展示場にもなったりもしています。




「観光スポット」と軽々しく言ってしまうのは少々気が引けるのですが、金門のパンフレットや訪れた人のブログを見ると、よくこの風景を目にします。トーチカの中から北側に向かって撮影した写真です。

海岸沿いに棒のようなものが斜めにたくさん突き刺さっているのが見えます。これも、敵が陸上に攻めてくるのを防ぐために設置されたものだそうです。人民解放軍が金門島に上陸した日は満潮。敵陣に上陸を許してしまうも、干潮になり船は身動きがとれず、大陸には戻れない、次の部隊は上陸できないと、戦術に多大な影響を与えました。国民党軍勝利の草分けだったともいわれています。



午後17時半。金城バスターミナルへ戻ってきました。ここまで私が聞き取れなかった中国語を、流暢な日本語で説明してくれていたお婆さんも、かなりお疲れのようです。半日で多くの場所を訪れる少々過密なスケジュールだったので無理もありません。

「明日もツアーに参加するんか?」と聞かれたので、午前中のツアーだけ参加して台北に戻ることを伝え、その日は別れました。







金門島へ行くというと、本島に住む台湾人にですら、「あんな怖いところへ旅行しに行くの?!」なんていわれました。

実際に行ってみて思うのは、「怖い」とは、決して治安が悪いだとか、今にも動き出しそうな戦車を見てドキッとする、という怖さではありません。本当に怖いのは、こんなにも醜く恐ろしいことをしてしまったのが、わたしたちと同じ人間であるという事実。それを、今回の旅でもとくにこの古寧頭戦場エリアで生々しく実感しました。

また、この島のひとたちがあえてありのままの歴史を公開することが「もう二度とこんな悲劇は起こさせない」という決意なのだろうとも。



このエリアを観光する際は、ぜひとも、過去に起こった出来事を軽くでも良いので下調べしてから訪れることをおすすめします。以下は古寧頭戦役に関連するリンク(日本語)です。

古寧頭の戦いの影に名将アリ *概要が分かりやすくまとめられています
古寧頭戦役|ウィキペディア
金門国家公園公式サイト


*今回訪れたスポットがアルファベット順になっています。



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